(連載推理小説)猟奇館事件

 

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 ある日、高島教諭はいつものように美術室で授業をしていた。授業では生徒たちに彫刻デッサンを教えていた。

「絵を描くには物の形、質感、明暗など基本的なことがわかっていないといい絵が描けない。今日は彫刻を見ながら、物の形、質感、明暗について学んでほしい」

 美術室の中央にギリシャ彫刻の胸像を机に載せて、その周りを生徒たちが自由に椅子を動かして絵を描いている。みんな苦心しながら描いているが、木炭の使い方に慣れていないので、なかなかうまく描けないでいる。ある生徒などはやり直しをしすぎて、絵が真っ黒になっている者もいる。高島教諭は、生徒たちのデッサンを見ながら、ひとりひとりに指導をしていく。

 ある日曜日の午後、高島教諭は自転車に乗って県立高校近くの国道4号を走っていた。  

 先日、野球部の生徒から聞いた山の洋館を見に出かけたのである。国道4号の途中に山を越えて隣村へ行く農道があった。農道の周りには畑があり、農家が点在している。農道の登り坂はそれほど急ではない。しかし途中から急になり、自転車を降りて歩いて行った。十五分ほど登っていくとやがて下り坂になった。遠方に村の集落が見えた。集落の農道をさらに進めばとなりのY町へ向かう。

 自転車で坂道を降りていくと、途中の林の中に柵が見えた。近くに来ると、柵の向こう側に古びた3階建ての洋館がぽつんと建っていた。洋館の周りは木や草がぼうぼうに伸びていた。

「あの洋館だな」

 高島教諭は、洋館まで通じている小道を行き門の前で自転車を止めた。鉄製の門の隙間から洋館を眺めた。洋館の壁板は所々剥がれて、窓は雨戸を閉め切っているので中の様子はまったく分からなかった。庭のあちこちに砕いた彫刻の破片がたくさん落ちていた。

「淋しい所だな。庭もずいぶん荒れている」

 しばらく見ていたが、誰もいないようなので引き返すことにした。でも、せっかくここまでやって来たので、集落も見ておこうと農道を走って行った。学籍簿にはこの集落に自宅がある生徒が数人いる。農道を走っていたとき、農作業をしていた中年の女性に声を掛けられた。 

「県立高校の高島先生ですね」

 その中年の女性は小林という男子生徒の母親だった。

「お散歩ですか。いつも息子がお世話になっています」

「ええ、退屈しのぎにここまでやってきました。ここは静かなところですね」

「この辺は田舎ですから車もほとんど通りません」

 高島教諭は、ふと思いついて、その母親に尋ねてみた。

「さっき下り坂を降りて来る時、古びた洋館を見たのですが、誰か住んでいるのですか」

 それを聞いて母親は、

「ええ、あの洋館は二十年前に建ちました。外国から帰って来られた当時四十代の彫刻家がいまも住んでおられます、でも最近は見かけません」

「県外の人ですか」

「詳しいことは知りません。両親なら知っていると思います」

 高島教諭は、その母親の両親に会って話を聞きたいと思った。

 広い畑には作物がたくさん植えられていた。

「ずいぶんいろんな物をお作りですね。キャベツ、カボチャ、山芋、玉ねぎ、ピーマン、ほうれん草、ジャガイモ、ネギ、トマト、アスパラガス、きゅうり…」

「ええ、どの農家でもたくさん作っています。最近はイノシシなどの野生動物の被害も少ないですから。以前はイノシシによく荒らされて困っていましたが、どうした訳か最近はほとんど見かけません」

 母親は笑って話したが、高島教諭はこの地区のことはよく知らないので「そうですか」とだけ答えた。 

高島教諭は、母親から参考になることを聞いたのでその日は帰ることにした。

村をUターンして再び山を越えて海岸沿いを走る国道4号まで戻り町へ向かった。ここからF町までは北へ5キロの距離である。町へ着くとホームセンターの傍に「樹氷」という喫茶店を見つけたので入ることにした。

店に入ると、昔の外国映画のポスター写真がたくさん壁に飾ってあった。どれもサスペンス映画ばかりだった。しばらくして注文を取りに店主がやって来た。店は店主が一人で経営していた。お腹が減っていたのでミックスサンドとアイスコーヒーを注文した。

窓際の方を見ると、本棚が置いてあり、サスペンス小説や推理小説の単行本や文庫本がたくさん入っていた。

しばらくして店主が、ミックスサンドとアイスコーヒーを持って来た。高島教諭は壁の方を見ながら、

「どれも懐かしい映画ですね。ずいぶん集めましたね」

「ええ、若い頃からサスペンス映画や推理小説が好きで、すっかりポスター集めのコレクターになりましたよ」

 高島教諭は店主にそんな趣味があるのなら、この町で有名なあの洋館の事も知っているのではないかと思い尋ねてみた。すると店主は、

「小さな町のことですからよく知っています。みんなあの洋館を「猟奇館」って呼んでいます。この店を開店した同じ年に建ったと思います。そういえば、開店当時はときどき彫刻家が店にやって来ました」

「どんな方だったんですか」

 店主は話した。

「明るい性格の人でした。多弁で自分のことをよく話しました。なんでもフランスに長く暮らしていたそうで、ロダンとかカミーユ・クローデルとかいう彫刻家の作品に影響されて、パリの美術学校で学んでいたそうです。自分の作品には自信を持っているようで、よく制作のことも話しました。その頃は、お金を払ってモデルを捜していましたが、どうしたわけか貧乏になってお金が払えず、気に入った女性を見かけると強引な態度で声をかけていました。それからはまったく見かけません」

「フランスで生活しておられたんですか」

 高島教諭は、興味深く聞いていた。

「私はこの町の県立高校で美術を教えているんですが、風景画や静物画が専門ですから、モデルをやとうことはありません。でも彫刻は人物が主ですからモデルを探すのも大変です。友人にも彫刻家がいるのでモデルさんのことをよく聞きます」

 店主は聞きながら頷いた。

「あの洋館へはもう行かれたのですか」

「ええ、さっき行ってきました。誰もいないようでした。また行くつもりです」

 店主とそんな話をしながら食事を食べ終えると、高島教諭は店を出た。自転車を漕ぎながら、店主が話したことをいろいろ思いだした。

「不思議な彫刻家だ。是非会って話をしたいな」

 高島教諭はこの店が気に入って、ときどき散歩の途中に来店した。

町のF駅までやってくると、吉崎通りの中へ入って行った。郵便局本局のそばに書店があったので中へ入った。

 書店に入ると中学校の生徒が数人立ち読みをしていた。ビアズリーのサロメのペン画集を見つけたのでそれを買って高島教諭は店を出た。アパートへ帰ってもすることがないのでそのまま港へ行った。ふ頭へ行くと、フィリピン国籍の貨物船が数隻、積み荷を降ろしていた。夜になるとこのふ頭では夜釣りをする人がたくさんいる。

帰りに海鮮市場へ寄って今夜のおかづを買うことにした。新鮮な魚が売られていたが、ほ

とんど売り切れていた。何かおかづになるものがないか探していると、

「お客さん、このアワビと牡蠣はどうですか。新鮮ですよ。もうこれしかありません」

と声をかけられた。

 買おうかどうしようかと迷っていると、後ろから男が割り込んできた。

「俺に売ってくれ」

 振り返ってみると、紺色のソフト帽をかぶった色白の背の低い男だった。すぐに外国人だと分かった。

「ありがとうございます。両方で千円です」

 その男は金を払うと、袋にアワビと牡蠣を入れてもらってすぐにそこから立ち去った。

「ああ、おしいことをしたな。何か代わりに買わないと」

 となりの商品棚にアジの干物が数匹残っていたのでそれを買ってアパートへ帰った。帰り道、自転車を漕ぎながらさっきの紺色のソフト帽を被った背の低い男の姿が妙に頭に残った。(つづく)