短編小説 歯車 芥川龍之介

 

(オリジナルイラスト)
 僕は芝の枯れた砂土手に沿い、別荘の多い小みちを曲ることにした。この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒白じらと立っている筈だった。(僕の親友はこの家のことを「春のいる家」と称していた)が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリイトの土台の上にバス・タッブが一つあるだけだった。火事――僕はすぐにこう考え、そちらを見ないように歩いて行った。すると自転車に乗った男が一人まっすぐに向うから近づき出した。彼は焦茶いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にじっと目を据えたまま、ハンドルの上へ身をかがめていた。僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはいることにした。しかしこの小みちのまん中にも腐った鼠もぐらもちの死骸が一つ腹を上にして転がっていた。
 何ものかの僕を狙っていることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮さえぎり出した。僕はいよいよ最後の時の近づいたことを恐れながら、くびすじをまっ直にして歩いて行った。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。同時に又右の松林はひっそりと枝をかわしたまま、丁度細かい切子ガラスを透かして見るようになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。……
 昭和2年(芥川の死の年)に発表された「歯車」には、片頭痛の症状が繰り返し述べられている。激しい痛みの前兆段階に現れる視覚的なもの、例えば白や黒の形を成していない閃光が視覚を妨害するものであったり、妨害が色とりどりの光によるものであったり、まぶしいジグザグの線によるものであったりする(歯車)。患者の中には、まるで厚いガラスかスモークのかかったガラスを通して見ているかのような、チラチラ光る、ぼやけた、曇った視界を訴える者もいれば、場合によっては視野狭窄や片側視野欠損を訴える者さえいる。
 短編小説「歯車」においても頭痛の前に必ず「歯車」の症状が出現する。
(水彩、色鉛筆画 縦25㎝×横18㎝)