山のアトリエ

 

 そのアトリエは、人里離れた山の湖のほとりにありました。周囲は深い森におおわれて、民家はなく、その小屋だけがただ一軒寂しく建っていたのです。

 夏は涼しくて居心地がよかったのですが、冬は寒さのために湖の水は凍って、周りの草地は雪で一面覆われていました。

 この土地の人たちは、そのアトリエにどんな人が住んでいるのか誰も見たことがありませんでした。でもただひとり、夏のある日、アトリエの近くを通った村の木こりが、窓ごしに小屋の中で絵を描いている若い男を見かけたことがありました。

 はっきり見えなかったのですが、アトリエの中にもうひとり誰かいるようでした。モデルだと思いますがよくわかりません。

 そんな奇妙なアトリエでしたが、どうしたわけか、ときどき町から人がやって来ることがありました。

 その人たちは町の画商で、絵を売って商売をしている人たちの間では、このアトリエのことがいつも話題になっていました。だれもが欲しがるような絵がここで描かれていたのです。ときどき出来上がった絵を売りたいという手紙が画商のもとに届きました。

 ある冬の日のこと、ひとりの画商がこのアトリエを訪れました。小屋はシンプルな木造二階建ての建物で、小屋の周りには柵はなく、庭は雪に覆われていました。

 画商は、小屋の玄関までやって来ると、手紙に書かれてあるとおり、玄関のドアを開けて中に入りました。画商が来るときは鍵が開いているのです。すぐ向こうに居間があり、中央のテーブルの上に、布でくるんだ何枚かの絵が置いてありました。そばに手紙が添えてあります。

(お約束の絵、2枚が出来ております。お持ち帰り下さい。代金をテーブル上に置いて下さい)

手紙にはそう書かれてありました。

 画商は持ち帰る前には必ず絵を確認しました。布をほどくと、中から美しい色彩の絵があらわれました。

「さすがに見事な絵だ。この絵もきっと高い値がつくだろう」

 画商は丁寧にその絵を鑑定してから、代金の入った封筒をテーブルの上に置きました。それからまたその絵を布でくるんで、この小屋から出て行きました。

 ある年の冬にも町から別の画商がやってきました。

その画商もこのアトリエで描かれる絵に強い関心を持っていました。手紙を受け取ったときは、飛びあがって喜びました。

 ある日、画商はこのアトリエを訪れました。

玄関のドアを開けて中に入ると、テーブルの上に絵が置いてありました。

布をほどいて、絵を確かめました。

「うわさには聞いていたが、なんという美しい絵だ」

その画商も、絵を長い時間眺めていましたが、約束の代金をテーブルの上に置くと小屋を出ることにしました。画商はふと、アトリエの中を見てみたい衝動に駆られました。

「どうせ、家主は留守だ。アトリエを覗いても見つかりはしないだろう」

小さな小屋です。たぶんアトリエは二階でしょう。玄間のすぐ横に階段があります。

画商は階段をのぼっていきました。ドアの前に立ちノブを握りました。

「幸運だ。鍵がかかっていない」

そっとドアを開いてみました。

 部屋の中はカーテンが下りていて暗かったのですが、部屋の様子はなんとか分かりました。8畳くらいの広さの部屋で、中央にイーゼルが置かれ、その上に、布をかぶせた一枚の大きなキャンバスが載せてありました。その周囲には、絵具箱、絵筆、ナイフ、パレット、ペインティングオイル、薄め液、デッサン用の木炭などが置かれた棚がありました。

「製作中の大作かな、どんな絵だろう」

 画商はそっと布をめくってみました。その絵は、深海の中を描いた絵でした。いいえ、深海ではありません。湖の中の様子を描いた絵なのです。

 職業柄、画商はいろんな絵を観てきましたが、こんなにリアルに湖の中の様子を描いた絵を見たことがありませんでした。

 画商は、ある推理をはじめました。

「自分の想像だが、この小屋の絵描きは人間ではなく、この湖に住んでいる人魚ではないだろうか。男の人魚がいるかどうか知らない。いや、それとも魚かもしれないな。ここを訪れるほかの画商たちに聞いても、手紙をくれるのはいつも冬だと決まっている。だとしたら、いまは湖の中で暮らしているのだ。いや、氷が張っているので外には出られないのかも知れない。そして夏になると、このアトリエで絵を製作するんだ」

 画商はそんなことを想像しながら、この絵がぶじに完成することを期待して小屋から出て行きました。

 長い冬が終わって、湖の氷も解けてしまうと、山の小鳥の囀りがあちこちから聞こえはじめ、山の草木もきれいな花を咲かせました。湖には白い雲が映ってそれは見事な眺めです。

冬の間、氷に閉じ込められていた魚たちは水面まで上がってくると明るい太陽の光を浴びました。

 その中に、春が来るのをじっと待っていた一匹の魚が水面に上がってくると、勢いよくそばの草の中へ飛び込みました。小鳥たちがそれを観ていましたが、草の中なので何をしているのか分かりませんでした。

 その夜からです。いつもは真っ暗だったこのアトリエに明かりが灯もるようになったのは。アトリエにはひとりの若者がいて、昼もほとんど外にも出ないで絵を描いていました。その絵は、去年の夏から描きはじめた湖の底にある神秘的な御殿の庭を描いた絵でした。

 御殿の壁や屋根は金色に塗られ、御殿の庭では人魚たちが戯れていました。東屋の椅子には、お姫さまと侍女が腰かけて、琵琶によく似た楽器を手にした楽人の演奏に静かに耳を傾けていました。この部分はまだ下描きのままで残っていました。

「明日は、お姫さまがここへいらっしゃる。そしたら、この下描きの部分を完成させよう」

 翌朝のこと、若者は、湖のほとりで立って、御殿から上がって来るお姫さまを待っていました。

 しばらくしてから水面に泡がつぎつぎと出来ると、やがて水の底から黒髪が見えました。水面にお姫さまの姿が現れ、そばの草の上に立ちました。 

「ようこそ、お出でくださいました。さあ、こちらへ」

 若者に案内されて、お姫さまは小屋まで歩いて行くと、二階のアトリエに入りました。

制作中の絵を観ながら、にっこりとほほ笑むと、窓辺に置かれた椅子に腰かけました。

 若者は、パレットと絵筆を持つと描き始めました。ときどき細目の筆に持ちかえたり、小型のナイフを使ったり、下描きの部分を塗り付けていきました。

 その日は夕方近くまで製作しましたが、お姫さまも疲れたようなので続きは後日にしました。

 絵の完成は秋になる予定です。その絵を世の中のたくさんの人たちに観てもらうのがこの絵描きにとってなによりの喜びでした。

「世の中にこんな夢のようなところがあるのか。何処にあるのだろう。一度は行ってみたいなあ」

そんな会話が人々の口から聞えてくるのが何よりの楽しみでした。

 お姫さまはときどきアトリエにやってきてはモデルになりました。 

 絵の制作は夏の間も続き、この大作は次第に完成されていきました。

 夏の間、若者は、月が美しく輝く夜には、ひとり湖畔を散歩するのが日課でした。

水面を観ながら、絵のことなど考えていましたが、その美しい情景とは似合わないような恐ろしい記憶がよみがえって来ることもありました。

 今から十年も昔のことです。

 都会の美術学校で絵を学んでいた若者は、ある日、同郷の幼馴染みの同級生に、山へ写生に行かないかと誘われたのです。同じ海の土地で育った二人だったので、以前から山の風景にはあこがれを持っていました。

 二人は、夏休みを利用して、絵を描く道具と画用紙を背負ってこの山へやってきました。

この小屋は当時から建っていましたが、誰の持ち物でもなく、その小屋に一週間ほど滞在して毎日絵を描きました。

 最初の日は、二人とも仲良く絵を描いていましたが、ときどき同級生の筆が止まることがありました。同級生は、自分の絵が妙につまらなく思いました、それに比べると、友だちの絵はなんと生き生きとした線と色使いで描かれているでしょう。才能の違いがはっきりと分かるのです。

 子供の頃も同じことを思っていましたが、美術学校で本格的に絵を勉強するようになってからは、その違いははっきりしてくるばかりでした。友だちの絵は教授たちの間でも大変評価が高く、権威のある美術展にたびたび推薦されました。郷里に帰っても、友だちの絵の評判ばかりで、幼馴染みの彼の絵などはまったく問題にもされず、友だちを妬む気持ちが強まるようになりました。

「この男が親友では、自分は永久に絵が描けなくなる」

 そんな強い嫉妬に駆られているうちに、恐ろしい考えが頭をよぎりました。

 ある日、二人で絵を描いている最中に、後ろから友だちを湖の中に突き落としたのです。海の土地で育った友だちでしたが泳ぎは得意ではなかったので、水面に沈んだまま姿を現しませんでした。

 友だちを殺してしまった同級生はすぐに山を降り、そして二度とこの山へは戻ってきませんでした。この事件は長く解明されないままになりましたが、死んだはずの友だちが誰かによって幸いにも助けられたことをその同級生は知りませんでした。それはまるで夢のようなことでした。

 湖の底へ沈んでいった若者は、湖の御殿に使える侍女に助けられました。意識を取り戻して、しばらく御殿で生活して、やがてお姫さまに使える魚になったのです。

 逃げて行った同級生は、学校を卒業したあと、プロの絵描きになりましたが、やはり二流の腕しかなかったので、絵も思うようには売れませんでした。

 あるとき、絵の仲間から、新進の凄い画家が現れた噂を聞きました。すぐにその画家の美術展を観に行きました。そしてその画風に見覚えがあるので大変驚きました。

「そんなはずはない」

 食い入るように絵を観ましたが、その画風はやっぱりあの友だちの絵に間違いないのです。死んだはずの人間の絵がどうしてー。

 その友人は苦悩しながら、何年か後には絵を描くことを完全にやめてしまったのです。

 秋が過ぎて、やがてこの山にも冬がやってきました。雪が山を覆い隠し、湖の水は厚く凍りました。翌年になるとすぐに、去年ここを訪れた画商がこの山へやってきました。大作の絵を売りたいという手紙を受け取ったからです。

「とうとう出来たのか」

 画商はその絵を非常に期待しました。最近ではこの絵描きの絵が高額の値段で売買されており、大作であれば相当の値が付き、大きな利益が出るからです。

 懐かしい小屋のドアを開けると、居間のテーブルの上に大きな絵が布にくるんで置いてありました。

 画商は、大急ぎで布をほどいてみました。そして食い入るように観ながら、

「見事だ。期待していた以上の絵だー」

しばらの間ただ嬉しそうに絵に見入っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

(未発表童話です)